雨〜ナルキスとマリアベルの場合〜
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バタッ、バタタッ、と、雨粒が白いパラソルを叩いている。マリアベルはその音が大きくなる度にビクリとパラソルを見上げ、手元の盆をぐらつかせた。彼女の主人は豪華な細工の付いた椅子に腰掛けながら、濡れた髪を束ねている。サテンのリボンが白い手袋に絡め取られながら、艶かしくうねっていた。
「ああ……」
マリアベルがソーサーに零れたローズティーを誤魔化そうと格闘している側で、ナルキスは吐息を漏らした。
「雨というものは、パラソルの下ではなんと魅力的なんだろうねえ、マリアベル?」
「は、はいっ。ナルキス様!」
突然声を掛けられたマリアベルはぱっと顔を上げ、その反動でカップの中身がさらに零れた。もう誤魔化しが効かないほどになったそれを見たマリアベルは、上げそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
「お前がもう少し早く傘の用意できれば、私が濡れることもなかったが……まあそれは置いておこう。雨脚が強くなったのはお前のせいではない。全ては神のすることだ」
主人は間違いなく上機嫌だった。マリアベルは自分が咎められないことに驚きながら、もたもたと紅茶を淹れなおした。
「恵みの雨とはよく言ったものだねぇ、マリアベル。雨というものは、凍った粒が神の手のひらで解けて、その手から零れ落ちたものだと言われている。だから神の恩恵であり、人間たちは神に感謝をするのさ」
すらすらとそう言う主人を、マリアベルは尊敬を含む眼差しで見つめていた。そうしてまた、手元を狂わせる。彼女はその繰り返しなのだ。
「ああっ、天に存在する神は私の美貌に嫉妬しているから私にこんな仕打ちをするのか!」
言うなり、ナルキスは立ち上がりパラソルの下から出た。雨脚は決して弱くはない。あっという間に彼の服や肌は雨水に覆われた。特に髪の毛――輝く金髪は雫を纏い、それが彼にとっては髪飾りだった。
「だが私の美しさはその仕打ちでますます増大する……っなんという罪だ! 美しさの罪はっ、かくも重いものなのか……!!」
マリアベルは陶酔している主人を見ることには慣れていたし、またそれにいつも心から同意していた。ナルキス様、おっしゃる通りです、と。だがこの時マリアベルは同意の声を上げなかった。それどころか、彼女はぱっちりとした目をさらに見開き、小さな口をパクパクと動かしながら何か言いたげにしていた。
「あの、ナルキス様……」
「ああっ髪を滴るこの宝石! 地面に吸い取られるこの雫は私の罪そのもの……」
「ナルキス様っ!」
マリアベルは傘の下から主人に駆け寄った。自分の言葉を奪われたナルキスは上機嫌から一転、不快さを顔の端に示してマリアベルを見下ろした。
「……何だマリアベル。私に口を挟むほどの用事なのか」
マリアベルは一瞬怖気づいたが、それ以上のものが彼女の中にあった。彼女の心臓は小さく震え、雨粒が白い頬に当たった。
「……お風邪を召してしまいます」
マリアベルの手は中途半端に二人の間に浮いていた。開いては閉じられ、それをいくらか繰り返した。ナルキスはそんな事か、とでも言いたげに目をそらした。
「大丈夫だよ、これくらいのことで。それよりも」
「お戻りください、ナルキス様」
しっかりとした彼女の声に、ナルキスは再び視線を戻した。
俯いた彼女の豊かな巻き毛が雨に押しつぶされていく。その景色はナルキスの目の高さから、はっきりと見ることが出来た。それは、美しかった。
数秒、いやもしかしたら数分だったかもしれないが、二人は雨音の演奏を黙って聞いていた。
ふ、と。はじめに生まれた音は小さな息の音だった。
「マリアベル。そう思うなら早く紅茶を淹れてくれ。私がさっきからお前の失敗を気付いていないとでも思っていたのか?」
小さな使い魔は濡れそぼった頭を上げると、うっすらと笑顔の主人の顔を見て安堵し、また、その台詞にうろたえた。
「え、あ、ああ、あの……申し訳ありません……」
「まったく……。ああ、あと勿論、さっき淹れていたのはレッドローズティーだろうね?」
「あ、え、えーと。ダマスクスローズ……では?」
「ダマスクスはとっておきの時に飲むためのものだと言ってあったろう。まさか、先程台無しにしていたのは」
「あああいえっ! そんなまさか!」
ナルキスは、はは、と声を出して笑いながら「そうだね。飲めば分かるさ」と言った。マリアベルの顔がうっすらと蒼白くなったのが分かったが、彼はさっさと傘の下に引っ込むと、彼の使い魔を急かした。
「何をそんなところで突っ立っているんだい。早くこちらへおいで、可愛い子。タオルをもう一枚。そしたらすぐに紅茶を淹れなおしてくれ」
マリアベルは驚き、寒さのために一度大きく身震いし、それから笑顔でナルキスの元へ駆けて行った。
「お茶が済んだら薔薇を見に行こう。ちょうど雨に濡れて綺麗だろう」
「はいっ、ナルキス様!」
せっせとお茶の用意をしているマリアベルは、もうローズティーの種類のことは忘れているらしい。ナルキスは大きく息を吐いたが、鈍感な少女はそれに気付くことはない。最後の忠告が届かなかったので、ナルキスはしばし口の中で叱責の言葉を考えていた。
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雨の感覚はもはやない。全身は濡れていないところなどない。しかしよくよく探してみると、口の中がからからに乾いていることに気付いた。ざらついた舌はそれを湿らせてはくれない。
彼は嫌になるほど雨を眺め、浴びている。
「神は、やけに嫉妬深い……」
ぽつり、呟かれた言葉は雨音にかき消される。どうして? その理由は明快である。彼は一人だからだ。
彼は思い出していた。そして同時に、思考していた。
雨音はこんなにも大きいものだっただろうか? 沈黙とはこんなにも重いものだっただろうか? 一人とは――……。
彼は弱まってきた雨を最後の一滴まで浴びながら、自分は今、さぞ美しいのだろうと思った。
(09.05.29)
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