雨〜シンの場合〜



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「それが終わったら、今度はアロマオイルの残りを調べてください。少なくなっているものはメモをして、僕に知らせてくださいね。それから玄関を掃除して――ああ、マットレスもきちんと干してください。この前貴方に頼んだ時は埃っぽいままで――トイレ掃除は済みましたよね? 済んでなかったら玄関掃除の後でいいですから。そしたら洗濯物を干して、キッチンの床を掃いて下さい。昨日マリーが落とした皿の破片がまだ残っているかもしれないので、念入りにお願いしますよ。花瓶の花もそろそろ変えないといけませんねぇ。後で新しいのを買ってくるので、それまでに洗っておいてください。それと……おやシン、どうして貴方は耳を塞いでいるんですか?」

 フラウがシンの左手を耳から剥がすと、早くもげっそりとした彼は言った。

「……すまんフラウ、最初に頼んだのは何だっけか? トイレ掃除?」

「アロマオイルの点検です。それが終わったら玄関、それが――」

「ああああもういいっ! 言うなそれ以上!」

 他に店主の言葉を遮る術を知らない青年は叫んだ。フラウは言葉を止めたが、シンの混乱はなかなか解けない。

「頼むから一つずつ言ってくれ、頭が爆発しそうだ!」

「貴方の頭が爆発したら、それはちょっと面白そうですね」

 シンは大きく一つ息を吸い、怒鳴り出しそうになったが、その前にフラウが「ああ、遊んでいる場合ではないですね」と手を一つ叩いた。

「僕は十分後に買い物に出かけます」

「へーへー。いってらっしゃいませ」

「だからそれまでに、点検を終わらせてくださいね」

「へーへー……へっ?」

「アロマオイルも一緒に買ってくるんですよ。だからそれまでに点検を終わらせるんです、貴方が。ああ、ちなみにマリーには三十分後くらいに台所の床拭きを頼んでいるんですよ。だから、それまでに玄関掃除とトイレ掃除、洗濯物を終わらせて台所の床を掃いてくれないと、マリーが昨日の破片の残りで怪我してしまうかもしれないですねぇ」

「ちょ、ちょちょ待て! なんだその鬼のような時間配分は!」

「はい、早く手を動かして。僕は出掛ける準備をしてくるので」

 フラウのピンと伸びた背筋が遠ざかる。シンはしばし呆然としていたが、慌てて棚に駆け寄り、目を凝らして片っ端から瓶をチェックし始めた。ガチャガチャと大きな音を立てていると、フラウの声がひょっと飛んできた。

「気をつけてくださいね。貴方が半月くらい働かないと買えないような値段のものもありますから」

 シンがぴたりと動きを止め、声のした方を振り返るとそこにフラウの姿はなかった。シンは行き場のない感情を押し殺しながら、今度は慎重に手を動かした。


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「ちょっと! そんなところで寝ないでよ悪ガキ! まったくもう、あたしがこんなに頑張ってるっていうのに、なんであんたは……!」

「黙って働け」

 シンが一言そう言うと、反論の声は止み、代わりに「んーん! んー!!」という喚き声が聞こえてきた。いくらかマシになった騒がしさに、シンはほうっと息を吐きながらテーブルに顔を伏せた。
 結局あの後こなした仕事の量は、この店の勝手にようやく慣れてきたばかりのシンにとって厳しすぎるものだった。
 何故だろう、この、どっと溢れてくるような疲れは。シンはそう思ったが、理由などとうに分かっているのだ。

「あの鬼店主……マジで人遣い荒すぎだろ……」

 あの、人の神経を逆撫ですることに関しては天下一品の男を思い出す。なぁにが「マリーが怪我してしまうかもしれませんねぇ」だ。立派な脅迫行為じゃねぇのか、これは。
 そう悶々と考えるのも疲れてきた。出来るだけあの男がゆっくり帰ってきますように――そう思っていると、上着の裾に突っ張った感触がした。
 ほんの少し、首を傾げる。マリアベルの小さな手がそこにあり、精一杯の力でシンの上着を引っ張っていた。

「……なんだちびっこ。もう掃除終わったのか?」

「んー! んんんー!!」

 マリアベルはもう一方の手を窓に向けていた。ふ、とそちらに視線を投げると、窓の向こうで細かい粒が降っている。淡く水色がかった外は寒そうに見えた。

「あ、雨か……フラウのヤツ、傘持って行ってたか?」

「んーんー!!」

 マリアベルは先程よりも強く引っ張ると、今度はキッチンの出口を指差した。シンは眉をひそめながらそちらを見たが、いつもと変わらない扉がそこにあるだけだった。

「なんだ? おい、何が言いたいんだ? はっきり言えよ」

 シンがそう口にした瞬間、マリアベルの口が勢いよく開かれ、次の瞬間には抑えられていた声が溢れ出た。

「せんたくものっ!!!」

「……せん……?」

「雨! 外、雨! 洗濯物干しっぱなし!!」

 助詞が使えないのか、このがきんちょ――そう口にしかけたが、シンはもう一度窓に目を向けると、一気に状況が飲み込めた。シンの心臓に、ひやりとした風が吹いた。

「やべえっ! 何でもっと早く言わなかったんだよ!!」

「言えなかったのよ! アンタが悪いんでしょ!!」

「あーもう、うるせぇっ!! その前にお前がうるさいから……ってそれどころじゃねえ!」

 椅子が大きな音を立てて倒れた。その後からマリアベルの声が飛んできたが、振り返る余裕がなかった。慌てて外に出ると、降り始めの雨がシンの体に均等に降り注ぐ。洗濯物も同じだった。
 染みのないテーブルクロス、ナプキン、ハンカチーフ、それに少量の衣類を屋根の下へ避難させる。その間も雨脚は段々と強くなっていた。水滴は上着を通り越して中まで入り込んできた。
 一番大きなベッドシーツを引っ手繰って取り込むと、シンはホッと安心するのと同時に馬鹿馬鹿しくなってきた。冷えた体に湿気が纏わりついて、鬱陶しい。
 雨なんか、嫌いだ。

「畜生……だから雨は嫌いなんだ! 折角干したってのに俺の苦労も知らねぇで!」

 言い終わった瞬間、ぶるりと寒気がした。風が出てきたのだろうか。そう思いながら振り返ると、数歩先にフラウが立っていた。いつ帰ってきたのだろう。足音も気配も、雨音に紛れてちっとも気が付かなかった。
 フラウは手に、しっかりと傘を持っていた。

(ああ、傘は持っていっていたのか――)

 しかし彼はその傘をシンに差してやる気配もなく、またシンもそれは断固として拒否したいことだった。数秒、視線がかち合うとフラウはふっと笑顔になって言った。

「ただいま戻りました。……随分と機嫌が良くないみたいですね」

「お陰様でな」

「雨は、お嫌いですか?」

 それとも、僕がお嫌いですか? そう続くかとシンは思った。先程聞かれた言葉が、フラウに対する暴言でなくて本当によかったと思う。さすがにそれは洒落にならないだろう。

「……ああ、大嫌いだ」

「洗濯物が駄目になってしまうから?」

 フラウは小さくだが、声を出して笑っている。

「何笑ってんだよ」

「いいえ……洗濯物が駄目になるから雨が嫌いというのはまるで……」

 そこで言葉が切れた。傘の下で雨から守られながら、フラウは可笑しさを堪えているようだった。

「まるで、何だよ?」

「主婦みたいですね」

 フラウはそう言うと、再びふふ、と笑った。シンの口からは乾いた笑いが漏れたが、それもほんの数秒のことで、彼はその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
 言い返せない。フラウの言葉が的確過ぎて言い返せない。いつの間にこんな主婦みたいな思考になってしまったのだろう、俺は。
 頭上では雨脚が更に強くなってきた。するとフラウはようやくシンに歩み寄り、持っている傘をほんの少し傾け、シンを入れてやった。

「そんなところで座っていないで、早く入りましょう。風邪を引いてしまいますよ」

 やめてくれ、そんなことを男にされても嬉しくない。
 シンはそう言いたかったが、そんな気力が湧いてこない。やっとの思いで立ち上がると、フラウを待たずに店の中に入った。フラウはその背後で、まだ笑っているようだった。

「着替えてからそれを部屋干ししてください。――そうそう、花を買ってきましたよ。花瓶は洗ってくれましたか?」

「……ああ」

「それは結構。早速活けないと駄目になってしまいますね。今、花瓶はどこに?」

「どこ……あー、確か水を切って、キッチンのテーブルの上に」

 シンが言い終わらないうちに、店の奥の方でパリンと何かが壊れる音がした。それとほとんど同時に少女の悲鳴が聞こえ、その後に妙な静寂が訪れた。
 シンはまだ頭がぼんやりとしていたので、物音のした方を振り返ることもなかった。だからフラウがものすごい勢いでキッチンを方向に目を向け、その顔が瞬時に強張り、青くなったのをまともに目にした。間もなくフラウはシンを追い抜くようにキッチンへ向かった。
 シンはずぶ濡れのままその場に残された。マリアベルやフラウの声も何故か聞こえてこず、雨音と体の冷たさだけがシンの感じている全てだった。
 シンは急に我に返ると、先程のフラウの様に小さく笑った。

「……珍しいもの見ちまったなあ」

 フラウの強張った顔が小気味良かった。シンはもう雨で濡れた体も気にせずに、キッチンを避けるようにして歩き出した。



(09.05.23)



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