雨〜フラウの場合〜


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 「S.dream」の窓は細かい雫に覆われている。
 フラウの指先が冷たいガラスをなぞると、その軌跡が透明に変わる。眼鏡越しに覗いたその向こう、灰色がかった景色を見つめていた。しかしすぐにその覗き穴は霞んでいく。彼はもう一度同じ箇所をなぞる。それを何度か繰り返した後、彼は思い切って掌全体で水滴を払った。するとそれに袖も巻き込まれて、フラウの手首が濡れてひやりとした。だが彼はそれを特に気にするでもなく、濡れた掌を拭きもせずに落ちてくる雨粒に視線を注いでいた。
 アロマオイルの匂いとハーブの匂いと、微かに雨の匂い。それらが混ざり合った店内はしんと静まり返っている。
 全ての客商売に言える事だが、こういう日は客足が遠い。「S.dream」の経営者であるフラウにとってはあまり歓迎できる事態ではない。が――彼の表情に不快さはなかった。

「冷えてきそうですね……」

 ようやく彼は白いハンカチを取り出すと、濡れて冷え切った手を拭き、カーテンを閉じた。
 雨は嫌いではない。むしろ心が落ち着く。
 晴れの日とは比べ物にならない深い静寂、吸い込んだ空気に含まれるしっとりとした湿気、そして目に映る灰色の空。何より、ベッドの中で耳に入る雨音といったら。
 フラウはキッチンに入ると湯を沸かし、ポットとカップに湯を注いだ。数種類のハーブを出来るだけ静かに取り出し、混ぜ合わせると指で荒く砕く。甘い香りの刺激。彼の手元から浮かび上がったそれは、一分もしない内にキッチンを包んだ。
 それをティースプーン三杯、ポットの中にさらさらと入れる。幸福な陶器の中に熱湯を注ぎ、蓋を閉めるとまた静寂がやってきた。
 あと三分間。いや、もう少し早いかもしれない。
 フラウは時計を確認した後、キッチンの隅に置かれた小さなゴミ箱を見つめた。危険物のゴミ箱だ。割れた皿やカップ、瓶などを入れておくための。
 あれは少し前、自分で買ってきたものだ。というより、少し前まではこの台所に必要のなかったものだ。今ではすっかり大活躍するようになってしまったそれを見ていると、複雑な気持ちが込み上げてくる。フラウは思わず苦く笑った。

「早くこのゴミ箱もお払い箱にしたいんですけどねえ……」

 しかしそれには、今もカップ二つ分の破片が入っている。先週は皿が一枚とオイルの瓶が一本。その前は……と思い出そうとして、やめた。思い出したところでいいことはない。

「誰かさんにはもう少し頑張ってもらわないといけませんね」

 ゴミ箱に向かってそう呟くと、ちょうど雨音の向こうから誰かの声が聞こえてきた。

「ちびっこ! 早くしろよ! あー畜生! 何でお前荷物持ってないのにそんなに遅いんだよ!」

「う、うるさいわねぇっ! アンタ速すぎなのよぉ!」

 続いて段々と大きくなる足音と、ばしゃんと水溜りの跳ねる音。それに続いて青年の「うえぇっ!」という叫び声。
 再び時計に目をやると、ちょうど三分経ったところだった。若い店主はドアベルの音が聞こえてくる前に、カップの中の湯を捨てた。ポットの中で出来上がったハーブティーを、ゆっくりと注いでいるとキッチンのドアが乱暴に開かれ、大きな紙袋がずかずかと入り込んできた。

「おや、おかえりなさい」

 フラウが紙袋に向かってそう言うと、その影から不機嫌そうな顔のシンがこちらを睨んでいた。彼の髪と上着は濡れ、ズボンの裾に至っては泥までついていた。
 シンはフラウの言葉を返しもせずに紙袋をどさりとテーブルに置くと、大きな声を上げた。

「あー! ちっくしょう濡れちまった!」

「それは大変でしたね。無事でしたか?」

「……無事に見えんのかこの俺の姿を見て」

 じろり、鋭い視線を投げられたがフラウは「買い物の品のことですよ」と笑ってカップに目を戻した。シンは「へっ、そーですか」と答えながら袋の中身を取り出した。店の入り口の方から、きーきーと喚いているマリアベルの声が聞こえてくる。

「あ〜もう! もうもうもうっ! ナルキス様にもらった服がこんなになっちゃったじゃない!」

「お前がちんたらしててなかなか出掛けられなかったからだろうがっ!」

「なっ……! レディーは出掛ける支度に時間がかかるのよっ! そんなことも分からないのクソガキ!!」

「勝手についていきたいっつったのはお前だろうが! 自業自得どころか、俺にまで迷惑かけやがって!」

 マリアベルが反論するまでの一瞬の隙間に、フラウの声が飛んだ。

「マリー。ドアの横にタオルが掛けてあるから、それで拭きなさい。風邪を引きますよ」

 貴方も、と視線で促され、シンは自分が泥だらけの靴でキッチンまで上がりこんでいるのに気がついた。顔から血の気が引くのを感じながらフラウを見ると、彼の完璧な笑顔が怖かった。シンは「あ、後で掃除すっから!」と言い残して玄関へと走って行った。
 玄関で言い争う二人の声――主にお互いへの責任の擦り付け合い――を聞きながら、フラウは最後の一滴まで注ぎ終えると盆に三つのカップを並べた。砂糖の瓶とスプーン、蜂蜜の容器を取り出し、カップの隣に添える。

「大体、俺はお前がいなきゃ行きも走って行ったんだぞ! それをお前がちんたらちんたら……牛だってもう少し早く歩くぞ!」

「あ・た・し・を牛と一緒にするなんてぇ〜……この」

「二人共」

 言い争いでたまに隙が出来るのはマリアベルの方だ。だからフラウはそのタイミングで声を掛ける。
 寒いのか、怒りのためか、奥歯を噛み締めながらこちらを振り返った二人の顔はそっくりで、思わず笑いそうになる。が、必要以上に笑ってしまわないように気を付けながら二人に告げる。

「言い争っていないで早く着替えてきて下さい。熱いお茶が冷めてしまいますよ」

 マリアベルは言い争いを遮られたことを若干引きずりながら、けれどフラウの手にしている盆を見ると、シンに「べーっ」と舌を出しながら駆けていった。

「あのガキ……全っ然反省してねえ……」

「貴方もですよ」

「え?」

「早く着替えて、掃除して下さい。貴方のお茶はそれからです」

 点々とキッチンまで続く足跡を横目で見ながらフラウは言った。
 再び青ざめたシンが逃げるように去ると、一人になったフラウはぽつり、呟く。

「……一人の時間を有難く思えるのは、幸せなことなんですがね……」

 従業員が戻ってくるのを待たずに、店主はカップに口を付けた。胃に熱とハーブの香りが落ちる。フラウはほんのつかの間、一人のお茶を楽しんだ。



(09.05.18)



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